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津の歴史                      大川吉崇会員        
◇孝子平治の伝説  ◇津市というところ  ◇結城神社は何を語る
孝子平治の伝説
 津市の阿漕浦、ヨットハーバー南岸に、「孝子
平治」の話が今も受け継がれている。 その昔、こ
のあたりは伊勢神宮の調進である御贄(みにえ)を
獲る禁漁の海であった。 平治は母の病気を治す
ため、矢幹魚(やがら)という魚が良いと夜な夜なこ
の海で網を打っていた。 ある夜平治は浜に笠を忘
れ、密漁が露見して捕らえられ、簀巻きにされて海
に沈められたという。
 平治なる者か否かは別として、西行の句に「通
うことをあこぎが浦に引く網に度重ならば人も知る
らん」とある。 さらに中世の『御伽草子』23編中の
『猿源氏草紙』にも「しほきとる阿漕が浦に引く網も
度重なればあらわれぞとする」と歌われている。
時代を遡ればのぼるほど、世に広く知られた伝説
であることを知る。
 津市内の柳山に、 「阿漕塚」と呼ばれる碑があ
る。 昔はこの当たりまで、海が入りこんでいたと
いう。 塚の横に芭蕉の「月の夜の何を阿古木に
啼く千鳥」の句碑があり、市内の代表的観光スポ
ットである。
 津南ロータリークラブのバナーは、この孝子平治
の忘れた笠をモチーフにして作られている。


津市というところ
 県都津市の「津」は、港(湊)を意味している。
その昔は、「安濃津」と呼ばれ、中世の明応7年
(1498)東海沖で起きたマグニチュード8.4と推定
される大地震による大津波で姿を消すまで、湊街
として栄えていた。 この安濃津の湊は、中国明代
末に発刊された候継高編『武備志』や芽元儀の『日
本風土記』に、鹿児島県の坊津や福岡市の博多の
津と共に記され、二つと比べれば規模は比較にな
らないほど小さいが、明国から見れば日本攻略上
の重要な三津の一つであった。
 近世になって、藤堂高虎が22万石の藩主として
当地に入り、沼や潟を埋め立てて城下町を形成し、
今日の原型が出来上がった。藤堂家は、商人の保
護政策をとり伊勢商人を育て、彼らは江戸に進出
した。 しかし商品である木綿の江戸への搬出は
紀州領の白子の湊を使ったため、安濃津の湊は復
興することはなかった。 平成に入り、中部国際空
港直結のルート開設により、新たな輝きをみること
となった。
  現在は平成の市町村大合併で10の市町村が
新津市となった。南朝方で知られる国司北畠氏の
本拠地美杉、真宗高田派総本山専修寺、旧海軍飛
行予科練のあった香良洲は、歴史の香りが残る地
である。 一方、伊勢本街道にある隠れ里と桜で知
られる三多気、清少納言の枕草子に記される名泉
榊原温泉、阿漕・御殿場の海岸などは、自然の豊
かさを感じさせる名所となっている。


結城神社は何を語る
   旧別格官弊社の結城神社は、南朝方の結城宗広
(ゆうきむねひろ)朝臣が祭神である。宗広は、新田
義貞と組し、元弘3(1333)年、鎌倉幕府の執権北
条高時を滅ぼし、後醍醐天皇を擁立、その功により
奥州多賀国府を治めた。しかしながら、新政権に対
して、足利尊氏が挙兵し、京都に新天皇を樹立し
室町幕府を開設する。
 それに対し宗広は、北畠親房と共に宗良親王(の
ちに南朝2代後村上天皇)を守って吉野に南朝を
樹立し、再興につくした。 南北朝の始まりである。
やがて二人は親王を仰いで、伊勢大湊から大船団
で奥州に向かうが、途中、暴風雨にであってしまう。  
文書の発見で 色々異説はあるが、『太平記』によ
れば「(宗広)伊勢の安濃津へぞ吹きつけられける
(漂着)」と記されている。そして、この地で病魔に
犯され他界したという。
 何時の頃からか、宗広は、結城明神として祀られ
民衆の信仰を得て結城医王大明神と称される。
文政7(1824)年に藩主藤堂高兌が堂宇と墳墓を
改築・修造した。明治13(1880)年に天皇の御巡
幸、同15年に別格官弊社になった。昭和の戦災で
社殿は全焼するが、同31年に再建された。
 結城神社には今日のもう一つの顔がある。それは、境内の庭園がしだれ梅の古木で埋め尽くされた
梅園になっていることである。開花時期になると、連日、拝観の人々が朝から暗くなるまで絶えること
無く訪れる。三重県を代表する名所である。


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