結城神社

結城神社は何を語る

旧別格官弊社の結城神社は、南朝方の結城宗広(ゆうきむねひろ)朝臣が祭神である。宗広は、新田義貞と組し、元弘3(1333)年、鎌倉幕府の執権北条高時を滅ぼし、後醍醐天皇を擁立、その功により奥州多賀国府を治めた。しかしながら、新政権に対して、足利尊氏が挙兵し、京都に新天皇を樹立し室町幕府を開設する。
 それに対し宗広は、北畠親房と共に宗良親王(のちに南朝2代後村上天皇)を守って吉野に南朝を樹立し、再興につくした。南北朝の始まりである。やがて二人は親王を仰いで、伊勢大湊から大船団で奥州に向かうが、途中、暴風雨にであってしまう。 文書の発見で 色々異説はあるが、『太平記』によれば「(宗広)伊勢の安濃津へぞ吹きつけられける(漂着)」と記されている。そして、この地で病魔に犯され他界したという。
 何時の頃からか、宗広は、結城明神として祀られ民衆の信仰を得て結城医王大明神と称される。文政7(1824)年に藩主藤堂高兌が堂宇と墳墓を改築・修造した。明治13(1880)年に天皇の御巡幸、同15年に別格官弊社になった。昭和の戦災で
社殿は全焼するが、同31年に再建された。
 結城神社には今日のもう一つの顔がある。それは、境内の庭園がしだれ梅の古木で埋め尽くされた梅園になっていることである。開花時期になると、連日、拝観の人々が朝から暗くなるまで絶えること無く訪れる。三重県を代表する名所である。